運搬・移動手段として自転車の需要が拡大し、
国内生産が輸入を凌駕した頃の大正9年(1920年)、
唐沢義之助は東京御徒町に唐沢商店を開いた。
自転車の修理のほか販売も手がけ、自社ブランド「香号(かおりごう)」という完成車も販売した。
福神漬けの主悦の本店やカステラの文明堂などに販売した。
昭和のはじめころ、
大卒の初任給が45〜50円の時代に
自転車は1台70円〜80円する高価な商品で運搬具の花形だった。
誰もが使えるものではなかったのである。
持ち主はとても大事にするし、手入れも怠らない。
しかし、当時の自転車にはリムブレーキが使われいた。
ブレーキシューを車輪のリムに押しつけてとまる構造のブレーキだ。
日本は雨が多く、欧米諸国と比べて道路事情が悪かった。
雨になると砂利混じりのドロンコ道になるところも少なくない。
そんな環境下でブレーキをかければ、雨で滑って制動力が下がり、俵などの重量物を運搬するのにとても危険であった。
さらに、シューとリムの間にドロがはいりこみ、ヤスリでリムを擦っているのと同じ状況になってしまう。
当時は現代のような優れたメッキではなかったこともあり、
シューが当たるリムの円周部分のメッキがどんどんはがれて錆びてしまう。
錆びたリムは高級品にあるまじき姿であった。
修理に持ち込まれた錆びた自転車を眺めているうちに、
「なんとかよいブレーキを開発できないものだろうか。
いや、絶対に必要だ。なにしろ自転車は高級品なのだから!」
と義之助は考えるようになった。
つづく
(参考 唐沢製作所各取材記事)